日光東照宮-1

国宝に加え世界遺産としても人気の観光スポットである日光東照宮

ここには江戸幕府の初代将軍、徳川家康公が祀(まつ)られているというのは皆さんご存じだと思います。

 

しかし単なる墓ではない!

ということが調べてみてわかりました。

 

さらに総責任者である南光坊天海(なんこうぼうてんかい)と言われる僧侶は山崎の戦いで戦死したと思われている、

明智光秀なのではないかと言われているんですよ!

 

未だ多くの謎が残る日光東照宮。

今回は徳川家康のお墓や遺体にまつわる諸説を解説していきますね。

 

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本当に勧請(かんじょう)したのか?

日光東照宮-2

家康公の亡くなった翌年の元和3年3月15日、

徳川家康公の遺言に従い、

勧請(家康公の分霊を移し祀ること)の総指揮にあたった南光坊天海はじめ家臣たちは、

久能山から日光へ向けた盛大な「神霊遷し」(かみうつし)を始めました。 

 

このときに勧請ではなく、

「宮遷し」と称し神霊を柩で運びました。

 

そして世間的に家康公の遺言が行われたと信じられました。

その時に総指揮だった南光坊天海が久能山に1つ歌を残しています。

あれハある奈け連ハ奈ひ尓駿河なるく能奈き神の宮遷し哉

(あればある なければないに するがなる くのなきかみの みやうつしかな)

意味としては、

霊柩の中に御尊体があると思ってもないと思ってもどちらでも良い。これは御尊体なき宮遷しなのだ!

というものらしいのです。

 

南光坊天海が言うには、

実際に勧請したかどうかは自分自身の口から言う必要はない。ということです!

 

家康公はどうして日光東照宮と久能山に分けた?

石像

家康公の遺体は久能山に安置したままであり、日光東照宮には魂だけが祀ってあるということなのではないかと云われています。

 

家康公は西国に不安を持っていたために、

他の大名たちに対して睨みを利かすという意味で西向きに立って埋葬されたとされています。

 

江戸時代は今のように火葬ではなく土葬だったため分骨をすることはできないし、

何しろ掘り起こしてしまったら、睨みを利かすという意味はなくなってしまうものではないのかと南光坊天海は考えたと言われています。

 

江戸から何百キロと離れている西日本は外様大名が多かったと記憶しています。

まだまだ戦乱の世が終わったが油断できなかったのでしょう。

 

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家康の遺言によって日光東照宮が建てられた?

日光東照宮ー3

1616年4月17日駿府で徳川家康公の薨去(こうきょ)が行われ側近たちに、

4つの遺言を残しました。

  1. 遺骸(いがい)は久能山(くのうざん)に埋葬すること。
  2. 葬式は江戸の増上寺(ぞうじょうじ)で行うこと。
  3. 位牌(いはい)は徳川家の菩提寺(ぼだいじ)である大樹寺(だいじゅじ)に立てること。
  4. 一周忌の後に、日光に小堂を建てて勧請(かんじょう)すること。

4つ目の「日光に小堂を建てて勧請すること」から現在の日光東照宮が始まっています。

 

そして現在の日光東照宮の元になっているのが、

寛永の大造替(かんえいのだいぞうたい)を行った3代目の徳川家光公のときです。

 

でもどうして最初に久能山へ一時的に埋葬したのでしょうか。

 

それは家康公自身が神となり、

不動の北極星の位置から徳川幕府の安泰と平和な世の中を守ろうとしたのではないかと伝えられています。

 

そういえば、少し前に都市伝説で日光東照宮は江戸の真上に位置し

  • 「鳥越神社」 (とりごしじんじゃ)
  • 「兜神社」  (かぶとじんじゃ)
  • 「筑土幡神社」(つくどはちまんじんじゃ)
  • 「首塚」   (くびづか)
  • 「神田明神」 (かんだみょうじん)
  • 「水稲荷神社」(みずいなりじんじゃ)

を結ぶと北斗七星となり結界となっているというのを思い出しました。

 

科学や物理などがない時代で、宗教などがとても力を持っていた時代だからこそ、

このようなことをして、平和を守ろうとしていたのでしょう。

 

奥宮に続く階段が長い訳とは?

階段

人の一生は重荷を負うて 遠き道を行くが如し急ぐべからずの文字が奥宮に続く階段の途中の看板に書いてあります。

 

現代風に訳するとこんな意味です。

人の一生というものは重い荷を背負って遠い道を行くようなものだ。急いではいけない

 

家康公は幼い頃から大変な苦労をしてきました。

今川家や織田家の人質になったり、

自分の息子に切腹を命じたり様々な辛酸をなめてきました。

 

この一文はとても深く考えさせるものがあるのではないかと思います。

 

それに徳川家康公の遺訓で有名な

鳴かぬなら 鳴くまで待とう ホトトギス

に似ていて、家康公の性格を見事に表していると思います。

本当にある?一昔有名になった徳川埋蔵金の真実は?

金の延べ棒

日本では今でも数多くの埋蔵金伝説が多々あります。

有名なものから無名なものまで枚挙に暇がありません。

 

昭和52年国学院大学教授、故桑田忠親(くわたただちか)氏によれば、未発見の埋蔵金量は150兆円にも上り加えて現在の価値に修正すると200兆円ほどになると言っています!

 

日本三大埋蔵金』というものがあるのをご存じでしょうか?

  • 1つ目が豊臣秀吉の黄金
  • 2つ目が徳川幕府の御用金
  • 3つ目が結城晴朝の黄金。

となっています。

 

3つの中で最も知名度があるのが徳川幕府御用金、

すなわち徳川埋蔵金です。

1980年代から90年代にかけて糸井重里氏が企画し、幾度もテレビで放送され有名になりました。

 

徳川幕府が御用金は360~400万両とされています。

現在の価値からすると4680億となります。

 

当時の徳川幕府はどうして膨大な額を埋蔵したのでしょうか。

 

幕末に大老に就任した井伊直弼(いいなおすけ)は開国によって日本の金銀が海外へ流出させるのを防ぐのと、

いざというときの軍用金にするためだという理由で隠したと言われています。

 

そこで最も重要なのが埋蔵金のありかですよね!

埋蔵金の隠し方というのは、

昔から変わっていなくて必ず3箇所に分けます。

  1. 隠してあるぽい場所を作る→実際には無い。
  2. ダミーの隠し場所を作る→そこそこの財宝を置いておく。
  3. 本物の隠し場所。

手がかりと言われるのは、

童謡「かごめかごめ」の中に隠されていると言われています。

 

まずは、こちらの動画をご覧下さい。

かごめかごめという歌詞ですが、籠の目をよく見てみてください。

徳川家にゆかりの神社仏閣を地図上でつなげてみると六芒星が浮かび上がるのです。

 

その中央にあるものが、日光東照宮!

 

次に「夜明けの晩に鶴と亀が滑った」

というのがあるのですが、

日光東照宮には鶴と亀の銅像があるんです。

 

二つの像に朝の光が当たってできた影の事を示していて、その先には徳川家の墓があります。

 

その後ろには祠(ほこら)があり、

六芒星の角が1つ取れている変わったマークが刻まれてあります。

 

その下にあるのではないかと言われています。

事実、地質調査では土や砂ではないものがあると分かっています。

 

だったらどうして掘らないのかというと、

国宝で世界遺産のために掘る事ができない。

というのもありますが、

掘り起こしたことで今までの歴史が根本的に覆されてしまうようなものが発掘されてしまうのを恐れているからです。

 

最後に

歴史は勝者が作ると言われ、都合の悪いものは隠ぺい、もしくは削除されてしまうのが昔からの流れです。

表側だけの歴史だけではなく、裏側の歴史を知る事で、本当の意味での『歴史』を知り理解できるのかもしれませんね。

それにしても、あるとわかっていて手を出さないっていうところが日本人らしいですね〜。

私が生きてる間に果敢な勇者が掘り当ててくれるのを期待しています(笑)

 

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